Relationship with Zhou Enlai
漢陽楼の開業は1911年。
初代店主である華人の顧雲生(顧宣徳)は、父親が中国から日本へ渡る船の船員でした。ある日、顧雲生は父に頼み込み船に乗って日本へとやってきます。ロシア銀行で賄いの仕事をしていましたが、日露戦争をきっかけにその銀行は閉店してしまいました。職を失った初代に留学生たちが、
「おまえは料理がうまいし、お店を出したらどうだ」
とアドバイスし、皆で「漢陽楼」の看板を手作りしてくれたそうです。
初めは賄い付きの下宿としてスタートした店は繁盛し、一時は銀座に店をかまえることもありました。その後、神保町近辺で移転を重ね、今ではここ小川町3丁目に漢陽楼本店が残りました。
明治から大正にかけ、ひと足早く近代化に成功していた日本で学ぼうと中国から多くの留学生が来日していました。その中に、後に27年間もの長きに渡って中国国務院総理を努めた若き日の周恩来がいます。
周恩来について初代から伝え聞いているのは、日本の食べ物が口に合わず苦労していたということ。当時はお金が無く、普段よく食べていたのは安い豆腐料理。そして月に一度ほど、自分へのご褒美として「獅子頭(シーズートウ)」(大きな肉団子の澄ましスープ蒸し)を食べていたそうです。
初代の出身は中国浙江省寧波。
周恩来とは原籍が同郷なので故郷の味を懐かしんでいたのでしょう。
ある日、NHKの取材がお店にやってきました。いきさつを聞いたところ、天津にある周恩来記念館の年表内に、留学中の周恩来が「漢陽楼」にお世話になっていたことを記す記載があったとのことでした。
その頃の生活ぶりは『周恩来 十九歳の東京日記』(1918、大正七年)に詳しく書かれています。
没後80年ぶりに発掘されたその日記は、小学館文庫から発刊されました。全文が収録されている中の一節に、留学当時の周恩来が当店に足繁く通っていた事が「漢陽楼」の実名と共に記されています。
80年ぶりに発掘された19歳の周恩来による東京滞在日記(1918、大正七年)。
当店が記されている本です。 amazon または、当店でも販売しております。